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2008年01月25日

高野聖・泉鏡花

泉鏡花の高野聖を読まれた方はいますか?

けっこう難解な文章で非常に読みづらいので、以前に読んだときには内容をきちんと理解するのは難しかった記憶があります。

今回改めて読んでみて、状況をきちんと把握すると案外おもしろいなと思いました。

おどろおどろしい現代で言うホラー小説の一種になるのでしょうか。そのつもりで読むとすんなり読むことが出来ました。 

ただ、読み終わってみていくつか疑問に思う点があります。

多くの人たちが馬やカエルなどの動物に姿を変えられてしまったのに、主人公になる僧だけはなぜ変えられなかったのか。

作品に出てくる天生峠が位置関係から考えるとおかしいので、実は安房峠の事を間違えたのか、あるいは泉鏡花が独自に創作したのか・・・

まだ読んだことがない人は一度読んでみてください。

2007年11月03日

二条城

二条城は、慶長8年(1603年)、徳川将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営し、3代将軍家光により、伏見城の遺構を移すなどして、寛永3年(1626年)に完成したものです。

二条城には、旧桂宮御殿を移築した本丸と、豪壮な二の丸御殿があり、二の丸御殿には300面以上の障壁画が現存しています。

また二条城には二の丸庭園、本丸庭園、清流園の3つの優れた庭園があり、二の丸庭園は国の特別名勝の指定も受けています。

詳しくは元離宮二条城のWebサイトから

 

2007年10月18日

仏教伝来

仏教の伝来については様々な説がありますが、 Wikipediaによると次のように書かれています。

『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖明王から釈迦仏の金銅像と経論他が贈られた時だとされている。

しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に538年(戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。歴史の教科書にはこちらの年号が載っている(詳細は仏教公伝を参照)。

仏教が伝来した際に、次のような騒ぎが起こったと『日本書紀』に書かれている。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、物部尾輿と中臣鎌子ら(神道勢力)は仏教に反対した。

一方、蘇我稲目は、西の国々はみんな仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか(「西蕃諸國一皆禮之,豐秋日本豈獨背也」)として、仏教に帰依したいと言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を寺として仏像を拝んだ。

その後、疫病がはやると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだ(「「昔日不須臣計 致斯病死 今不遠而復 必當有慶 宜早投棄 懃求後福」)として、寺を焼き仏像を難波の掘江に捨てた。その後、仏教の可否をめぐる争いは物部尾輿・蘇我稲目の子供達(物部守屋と蘇我馬子)の代にまで持ち越され、用明天皇の後継者をめぐる争いで物部守屋が滅亡されるまで続いた。この戦いでは厩戸皇子(後に聖徳太子と呼ばれる)が馬子側に参戦していた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2007年10月03日

京都御所

京都御所は、京都に都を遷されて以来明治初期までの1000年あまりの間、皇居として定められていた場所です。

現在のものは安政2年(1855年)の造営になります。

紫宸殿を始めとして、清涼殿、小御所、御学問所、御常御殿など平安時代以降の建築様式の移りかわりを見ることができる貴重な存在となっています。

現在では多くの豊かな樹林が形成されており、訪れる人を楽しませてくれ、庭園や自然とのふれあいの空間として重要な役割を担っています。

詳しくは宮内庁のホームページ京都御所から

 

 

2007年09月28日

アラビアの夜の種族

アラビアの夜の種族は古川日出男による作品ですが、アラビアンナイトに通じる作者不詳の作品をたまたま和訳する機会を得た古川氏が翻訳したとされているちょっと不思議な作品です。

PLAYBOY紙で紹介された「この10年で最も面白いミステリーベスト100」の日本1位に選ばれているだけあって、3人登場する主人公のからみが大きなテーマとなったり、若き日のナポレオンが登場しそれを迎えるエジプトの姿があったりと、一見歴史物とも思える壮大なミステリー作品だと思います。

読んでみればわかるのですが、ラストが最初に期待していたものとは違うのが、肩すかし感を覚えたのは私だけでしょうか。


 

 

2007年09月15日

親鸞について

今から約800年前、1173(承安3)年、京都の日野の地で親鸞は誕生した。9歳の時に慈円(1155~1225)のもとで出家し、以後20年にわたり、比叡山で堂僧として修学に励む。


 29歳の時、比叡山を下り、聖徳太子ゆかりの六角堂に100日のあいだ参籠する。その中で聖徳太子の夢告をうけて吉水(よしみず)の地をたずね、本願念仏の教えを説いている法然(ほうねん)上人(1133~1212)に出遇う。これ以降、生涯を通じて法然の門弟として、本願念仏の教えに生きていくことになる。


 33歳の時には師法然の『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』の書写と、肖像を画くことをゆるされ、これが後には法然の仕事を引き継いでいこうとする使命感となっていく。


 1207(承元元)年、専修念仏弾圧によって、法然上人をはじめ8人が流罪(るざい)に、また住蓮房ら4人が死罪に処せられることになる。親鸞も藤井善信の罪名で、越後の国(現在の新潟県)に流罪となり、法然上人とは再び会うことはできなかった。親鸞35歳の時である。


 1211(建暦元)年、罪をゆるされたが、しばらくは越後にとどまり、42歳の時に妻子とともに関東の常陸(ひたち、現在の茨城県)に移る。その後の約20年間、多くの同朋たちに本願念仏の教えを伝えていった。


 60歳をすぎた頃、親鸞は京都に帰り、『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)をはじめとする著作を次々と書いていく。それは師法然が明らかにした本願念仏の仏道を、世に掲げようとする願いに支えられたものであった。


 京都での生活も決して平穏なものではなく、弾圧を避けながら住む場所も転々としている。また、84歳の時には、本願念仏を否定した息子の善鸞を義絶しなければならないという悲しい出来事もあった。しかしその生涯は、迷いを超えて真実に生きる道を求め続けた一生であった。


 みずからを愚禿釈親鸞と名のり、仏道に捧げ尽くした90年の生涯は、1262(弘長2)年11月28日をもって閉じられた。

歎異抄の世界はこちら

2007年09月02日

北野天満宮

北野天満宮は「天神さん」と呼ばれ、学問の神様である菅原道真公が祀られていることで有名です。

北野天満宮の境内には50種類約2000本の梅が植えられており、毎年2月初旬から梅苑が公開されます。

北野天満宮には昔から伝わる七不思議の史蹟というのがありますが、みなさんはご存じですか?

正解は北野天満宮のサイトをご覧ください。

2007年08月22日

金閣寺

三島由紀夫の金閣寺は京都の代表的な建築物「金閣寺」を採り上げながらも、主人公の心の動きや葛藤を表現した三島文学の代表的な作品です。

 主人公が心の悩みに悩んだ末に金閣寺を放火するという実話に基づいた作品ですが、仏教用語が出てきたりして一見難解な作品でしょう。

ただ、観念的な執着など三島文学の特長を現した作品ですので、ゆっくりと時間が取れるときに一度じっくりと読んでみてはいかがでしょうか。

 

 

 

2007年08月05日

仁和寺

仁和寺と書いて「にんなじ」と読みます。 

仁和寺の歴史は仁和2年(886年)第58代光孝天皇によって仏法の興隆を図るため「西山御願寺」(にしやまごがんじ)と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。

仁和寺の桜は「御室桜」とも言われ、丈が低いことで有名です。

大きな仁王門を通って境内に入ると、その広さに目を奪われます。

この仁和寺は1994年に京都の文化財の一つとして、ユネスコの世界遺産に登録されました。

仁和寺の詳細はこちら

2007年07月12日

龍安寺の石庭

日本全国のあちらこちらに石庭はありますが、その中でも特に有名なのはこの龍安寺の石庭ですね。

龍安寺の石庭には木や草はいっさい用いずに15個の石と白砂だけで作られています。

この龍安寺の石庭は、簡潔日の極致、また禅の精神の表現とも言われています。 

 

2007年07月03日

大谷大学・博物館

大谷大学は、大学開設330年余、2001年には近代化100周年を迎えました。近代化100周年の記念事業として建設した「真宗総合学術センター 響流館」の中に、博物館は置かれています。

2003年10月7日、京都府より博物館相当施設の指定を受け、2003年10月14日(火)より、一般公開を開始しました。

大谷大学は開設以来の歴史と伝統と、多くの先学の苦心に支えられ、真宗・仏教・歴史・文学・芸術など広範囲にわたる貴重な資料を12,000点余所蔵しています。

博物館は、これらの文化資産を広く公開する拠点として、大谷大学の新しい顔として活動しています。
また、真宗・仏教文化財の収集・研究を中心とした、特色ある博物館をめざして活動を行います。

博物館概要はこちら

2007年06月02日

銀閣寺

銀閣寺は金箔を貼られた金閣寺とは違い、黒漆塗りの建物です。

 銀閣寺は金閣寺とともに相国寺の山外塔頭のひとつで、正式には慈照寺といい、山号を東山(トウザン)といいます。

京都で東山と書かれていると(ひがしやま)と読んでしまいそうですね。 

銀閣寺の屋根の上には東面した鳳凰が置かれています。 この鳳凰は銀閣に祀られている観音菩薩を守るという意味があるそうです。

2007年05月16日

京都と呼ばれるようになったのは?

皆さんは何気なく「京都」という地名を使っていますが、京都が「京都」と呼ばれるようになったのはいったいいつ頃からでしょうか?

その昔「794うぐいす平安京」と小学校で覚えたように、平安京遷都は794年ですね。
桓武天皇が新京に移り、遷都の詔が下されたこの時は、まだ「京都」とは呼ばれていなかったのです。

「平安京」、「京」、「京の都」などと呼ばれ、 京都と呼ばれるようになったのは院政期だとも言われています。
時代劇でもおなじみのように、江戸時代は「京」という呼び方をしていますよね。それが明治維新後にまた京都と呼ばれるようになり現在まで至っているらしいのです。

京都の歴史については詳しく書かれた「京都通(京都観光・京都検定)百科事典Encyclopedia of KYOTO」というサイトがありますので、こちらもぜひ参考にご覧ください。

京都通(京都観光・京都検定)百科事典Encyclopedia of KYOTO

 

 

 

2007年04月07日

日本最古の漫画

「鳥獣人物戯画」

一般的に「鳥獣戯画」として有名で、誰もが教科書などで知っているように
カエルやウサギ、サルなどが僧侶や人間に扮している滑稽な作品です。
甲・乙・丙・丁の全四巻からなり、この有名な画は甲巻に納められています。

当時の僧侶などを動物を使って風刺しており、
そのほのぼのとしたタッチは
ウィットに富んでおり、現代にも通じる感覚を覚えます。

まさに「日本最古の漫画」といわれる所以がそこにあります。

京都市右京区の高山寺に伝わる絵巻物であり、
現在は甲・丙巻が東京国立博物館、乙・丁巻が京都国立博物館に
寄託されております。

 

 

2007年03月27日

北大路にある大谷大学

大谷大学は京都市営地下鉄烏丸線の北大路駅を上がった所にあります。

 京都の町が碁盤の目のように道路が交差していることはみなさんも良くご存じだと思います。 ではみなさんは「条坊制」というのをご存じでしょうか?

この碁盤の目のような都市区画のことを条坊制というのですが、古代の日本で中国にならって設けられた制度なのです。

 平安京の条坊制では、南北に走る計9本の大路と,これらと直角に交わって東西に走る一条~九条の大路などで区画整理がなされました。その中でも北大路は平安京の一番北にある一条大路が起源だと言われています。

京都は歴史の宝庫です。大谷大学の周辺にも歴史にゆかりの深い場所がたくさんありますし、古典から現代までの文学に関連した土地もたくさんあります。 日本の歴史や文学をじっくりと味わい、研究することもまた素晴らしいことだとは思いませんか?

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